私は基本、自分に自信のある人間だと思う。それが助けになることもあるし、そのせいで必要以上に落ち込むこともある。

このブログは、仕事に繋げることを目的としていると同時に、それ以前に「自分の心と頭の中を開放する場」として、私の今現在の思いとか考えを、フィルターを一切通すことなく書き綴っている。

だからほんの1年前のことでも、自分で読んでみると正直面白い。いや、自分のことだから面白いんだと思う。こういうことを考えていたから、今これをしているんだと、自分の思考回路の変遷を辿ることができる。

ただ、最近のブログはテンションのアップダウンが激しすぎて、たった数日前に書いた内容でも、読み返すとヒヤリとすることがある。そこまで正直に書いて大丈夫?と。生徒さんやお客さん達が「相当オープンに書いてますね」というのは、私にやんわり牽制をかけてくれようとしてくれていたのかもしれない。

こう思うようになったのも、一昨日「なんもやる気が起きませーん」な日を過ごす中、生徒さん達がレッスン内で話題にしていた日本人のYoutubeや、そこから派生して上がってきたおすすめ動画を猛烈に見続け、「特に実力も人気もない人が自信満々に自分のことを開けっ広げにすることの虚しさとイタさ」を感じたということがあって。

別にそういう人のチャンネルは見なきゃいいし、そういう人が存在することに全く害はないのだけれど、何か「もっと上手くやればいいのに!」と、もどかしい感想を持った。

そしてふと、「あれー私のブログもそうだったー」というところにたどり着いてしまい、さてどうしようと考え始めて、頭に浮かんだキーワードが「謙遜」と「自信」。

「謙遜」というものは私は無駄に感じて好きじゃなくて、謙遜する人と付き合うことに、すごいストレスを感じる。それよりさらにストレスなのは、謙遜することが美徳だと思って謙遜している人と付き合うことだ。本音で謙遜しているんじゃなくて「謙遜=嗜み」と思って自分を卑下するパターン。そんなにフィルター通しまくったコミュニケーションは、私は求めていない。

自分の持っている能力に対しては、その能力に見合った「自信」を持っていて欲しいし、自分の能力を把握と自覚していることも、ある意味「自分をわきまえる」ことでもあると思うので、だから私は自信がある大人でありたいと思うし、そういう人と付き合うことに喜びを覚える。

ただここで注意すべきは、日本人としての美徳である「謙虚さ」という存在だ。

人生の半分以上を海外で過ごしている私は、最近すっかり「謙虚さ」なるものを忘れていた。「謙遜」「自信」の2つの物差しで人間の態度を判断するようになって、もう十何年も経つ。

「謙虚さ」とは、謙遜にも自信にも使える特別なスパイスで、それぞれとちゃんと両立させられるものだ。そして、分別をわきまえた大人なら、集団生活を送る中で、周りを不快にさせないために装備しておく必需品だ。そんな必需品を、中年に差し掛かった私が携帯せずにドヤって生きていたなんて、恥ずかしくて情けない。

開けっ広げに自分語りすることも、自信満々であることも変えなくていい。ただ、そこに謙虚さがあるかどうかで、相手への伝わり方は相当変わる。どうせなら気持ちよく受け取ってもらいたいじゃないよね。

ブンブン、サンキューYoutubers。

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By Haruka